息子の生い立ち

 

 被害者の方々に、御遺族の皆様に、そして日本中に戦慄をもたらした一連のオウム事件の大惨事に関与した私どもの次男、井上嘉浩が取り返しのつかない

ご迷惑をおかけ致しまして心からお詫び申し上げます。

 誠に申し訳なく、お詫びの言葉が見つからず胸が潰れてしまいそうです。

 

 息子の成長の過程に於いて、恥ずかしいながら余りにも未熟な母親であったことが、息子をオウム教団へ出家させてしまった原因の一つ、或いは大きな要因

であっかもしれないと大きな後悔を致しております。

 

 息子の生い立ちについて、母親の拙い文書をお目通しいただければ幸甚に存じます。

 

 平成7年5月15日、午前7時のNHKTVの画面いっぱいに、逮捕された一人の青年の姿を目にした私は、当初彼が息子だとどうしても認識できません

でした。

 しかし、「いのうえよしひろが逮捕されました」と繰り返し流されるアナウンサーの声に、やはり息子なのだと認めざるを得なくなり、そのときを境に私

は被害者に対して、社会に対して甘えることは決して赦される立場ではないことを肝に銘じなければならなくなりました。

 

一方、私は被害の余りの大きさと息子の罪の大きさを知るほどに、自分を失い高波に吞まれたように翻弄されてしまいました。そんな中、当番弁護士の神山

ですと名のられた一本の電話に耳を傾けました。

この電話によりこれまでの私の人生で経験したことのない裁判という世界に、今後、息子共々入ることになるのだということを認識せざるを得なくなりました。

 これから始まる裁判で息子は関わったことは一切すべて自白する義務がり、そのために家族の支えが必要且つ大事なのだから、路頭に迷うような母親では

いけないと、私は自分に言い聞かせわが身を叱咤激励していこうと決意を致しました。

 

 ここで先ず、事件後18年になる今、何故オウム真理教という宗教団体へ息子が足を踏み入れることになってしまったのか、私は真剣に考えなければ

いけないと思っています。

息子の二歳の頃、京都の洛北から西方向の太秦に、主人の強引な要望に逆らえず引っ越しすることになりました。家の前は田畑が広がり、自然の恵みが

残っている環境ですので、主人は子供のために選んでくれたのでしょうが、これまで住み慣れたところから転居することに、私はどうしても心が動かず主人

に引っ張れるように引っ越しました。

転居ぐらいでと思われても仕方ないですが、私は転居したことで次々に病に襲われ育児もできなくなり、強度のノイローゼに見舞われました。主人に助けを

求めたものの、仕事に追われて主人は私の苦しみなど理解されず、転居して間もない私は近くに友人もなく、咄嗟に自ら命を絶つという行為を起こしてしまい

ました。発見が早く大事に至りませんでしたが、幼児の心に大きな傷跡を残すことになったことは間違いありません。やっと乳児を卒業したばかりの息子に

とって、母親はまだまだ大事な存在であった筈です。その後、息子は母親の懐で安らぐことに躊躇するようになったのではないかと思いますと、私の愚かな

行為は小さな息子の心に恐怖と不審を抱かせるようになったかもしれないです。

 

親の口から申しますことではございませんが、人一倍優しい息子は母親の回復を願うかのように、家の前の畑から小さな花を見つけてきて私の枕元に持って

きてくれました。ぼちぼち体調が良くなりました頃、幼児の足でも我が家から十分ぐらいのところにある広隆寺に出かけることができるようになり、境内で

息子は楽しそうに鳩たちと戯れていました。

太秦はお寺や神社の多い環境で子供らの遊び場はお寺や神社でしたし、小学生の写生会も仁和寺で行われていました。

私どもはごく普通のサリーマン家庭で仏教徒ではございませんでしたが、早朝から托鉢修行のお坊様が各家をホオームと声を響かせながら回られる声が聞こ

えると、息子はいつも玄関でお坊様を待ち受けていました。親からもらったお小遣いを貯めておいて、お坊様にお布施をするのが何より楽しみだったよう

です。

真冬の早朝、朝霧のかかる冷たい風に乗ってホオームと響き渡る声は、宗教に疎い私でもとてもすがすがしい清らかなものを感じさせられました。

息子はその朝もいつものようにお坊様に頭を下げ、お布施を差し上げ合掌していました。この様子を傍らで見ていた私に「将来の自分の姿かもしれないよ」

と真剣なまじめな顔つきで息子は申しておりましたが、私はただの冗談だと受け止め、気になりませんでしたが、その時すでに息子の心は宗教の道に進んで

いたようで、息子の将来を考えようともしない愚かな母親でした。

 

つい最近のことですが尊敬しているお方から、嘉浩の求道心は母親が幼児期に自殺を図ったことによるものだと指摘され、私は自分のなした浅はかな行為が

子供に大きな影響を与えていたことを改めて知り愕然となりました。

『親以外に頼る人のない幼児期に親に頼れず、親はこの時期の子供にとって人生の代表者ですから、親に頼れないということは人間に頼れないという精神

構造になってしまい、子供は自分一人で人生の苦難に立ち向かわなければならないというストレスから、幻覚や金縛りを感じるようになり誰にも打ち明けて

相談できないために宗教や武術に救いを求めたと思います。』とご教示を受け頭が真っ白になりました。

こうした精神構造が息子の幼児期から内在していた上に息子の育った環境により、一層宗教に息子の心が動かされ,更に主人との価値観の大差から両親の

トラブルを目にしていた息子は、ひたすら自分の安住の居場所を捜し求めた結果、それがオウムへとつながったかもしれないです。もしそうならば、私は息子

の人生の岐路に立つことになったオウムへの入信の原因は、母親の愚かな行為により次第に膨れ上がったように考えられます。

被害者の方々に、世間に、そして息子にとって赦されない母親であったことに改めて大きな後悔と責任を感じないわけにはまいりません。

 

息子が逮捕された頃、オウムのことが報道に流れない日はありませんでした。未曾有の事件といわれたオウム事件の真っただ中に息子は巻き込まれていた

ことから、逮捕された当時は報道関係者らでちっぽけな我が家の前は埋め尽くされ、一歩も外に出かけられない状態でした。恐怖の電話が鳴り続け私は

わなわな震えているだけでした。

その7年前、家族で京都駅八条口までオウムへ出家する息子を見送ったとき、目に涙を溜めながらもキラキラ瞳を輝かせて家族に深く頭を下げ「行ってまい

ります」と希望に胸を膨らませていた息子を眼前にしながら、その別れ際に、何故出家を止められなかったのか悔やんでも悔やみきれないです。

 

息子がオウムと関わりを持っていることを私が知ったのは、息子が高校二年の夏休みに入ったばかりのことでした。

その頃少しでも家計の助けになるようにと私は教材を配布するアルバイトをしていました。その日は暑い夏の日差しに道路が焼かれるかのような強い紫外線

が降り注いでいました。出かけるのは辛いなあと思いながらアルバイトに出かける用意をしていた時、息子が「今日は僕が手伝うから」と言って数十冊の教材

をみな配ってくれました。

そしてその後、楽しみにしていた空手道場に出かけていきました。息子が通っていた高校には空手部がなく、街の道場で練習するのが楽しみだったよう

です。

その日の夕暮、顔をしかめながら帰ってきた息子は家に入るなり台所にしゃがみ込んでしまい痛い痛いと涙を流していました。めったなことで泣くような

子供でありませんでしたので、その異常な姿に驚き、痛みの原因すら聞けない有様でした。見た目には外傷はなく少し落ち着きを取り戻してぼそぼそと痛い

箇所と原因を話し始めました。空手の練習中に急所を蹴られたことから激痛が起こっていることを知り、直ぐに病院へ行くように言ったものの応じてくれず、

取りあえず横にさせて様子を見ることにしました。しかし、激痛は増すばかりでその痛みに耐えきれず近くの病院で診察を受けたものの、夜半になり痛みの

ひどさに救急病院に駆け込み入院せざるを得なくなり、十日間ほど入院生活をすることになりました。治療の甲斐あって激しい痛みも山を越したころ、読み

たい本があるとのことで、息子の部屋にある数冊の本を持ってくるように頼まれました。その中に麻原彰晃の本もありましたが、当時はその著者がどういう人

なのか知りませんでしたので気になりませんでした。

しかし、病院で処方された薬をその本の上に置き、薬を飲むときにその本を手に取り何か祈りながら薬を飲む息子の姿が異様でしたのでとても気になり

ましたが、主人は海外に出張中ということもあって、とにかく無事に回復してくれるようにと願う心でいっぱいでしたので、その本のことを息子に問う余裕な

どありませんでした。でもやはりこの時点で何故これほどまでその本を大事にするのかと疑わなかったのは母親失格です。

幸い経過も良く予想外に早く退院することができほっとしました。気さくな息子は病院生活の間にお友達になったらしく、退院の折に隣室の患者さんに見送

られ久々に我が家に戻ることができ息子も私も本当に嬉しかったです。

自宅で療養中、息子の依頼で「空海」と「ビルマ間の竪琴」のビデオを借り真剣に見ておりました。その数日後、痛みも殆どなくなったらしく、久々に私は

ゆっくり買い物に出かけました。

しかし、その夜、息子の身体に異常な事態が生じました。夜11時頃でしたが夏風邪のような症状が見られ、急に大変暑がりクーラーを強めますと、今度は

冬布団を欲しがるほどの寒さを感じましたので、体温を計ると40度を越えており、私は怪我の後のところが悪化したのではないかと病院へ出かける準備を始

め、息子にこれから病院へ行くので起きるように促したところ、息子は慌てる様子もなく「これは火と水の洗礼なのだから」と訳の分からないことを言い、

「超能力秘密の開発法」という息子の入院中に頼まれた本に電話番号が出ているのでそこに電話して、どのように対処すればいいか尋ねてほしいと必死な表情

で頼まれましたが、私は声を荒ら立てて、「手遅れでもしたらどうするの!」と息子の要望を聞き入れず叱りつけました。息子は半分泣きながら「頼むから

聞いてほしい」とあまりの熱心さに仕方なくダイヤルを回しました。女性の方が応対され息子の症状を話すと、息子と同じことを言われ、上司に指示を仰が

れ、「臍下3センチ位のところに精神を集中させて下さい。もし一時間過ぎても熱が下がらなければ病院へ行ってください。」と言われ、そのことを息子に

話すと直ちに息子はその体勢をとりましたが、私は気がきではありませんでした。取りあえず一時間だけ様子を見ようと息子の傍で見守っていました。
30

ほどしたころ息子は全身汗でびっしょりで、下着を何回も替えなければならなくなり、
40分ほどたったころすっきりした表情で「水を飲みたい」と言い、

ぬるま湯をたっぷり与え検温させますと平熱になっていました。私は訳がわからないままその夜は静かに寝かせ、翌朝、本人は病院へ行く必要はないと

言い張っていましたが、私の強い言葉に仕方なく診察を受けました。「怪我の方は大丈夫です。もう飲み薬もいらないです。塗り薬だけもうしばらく続けて

ください」という医師の言葉にほっとしたものの、昨夜の出来事について息子は詳しいことは何も話してくれませんでした。

当時、高校二年生の息子にとってこうした生々しい体験からオウム真理教の虜になってしまったのかと思いますと、言葉で言い表せない悲しみと大きな後悔

に追いやられます。

 

息子は自分で東寺の側にある洛南高校を選びました。校訓の一つに真理を探究せよと記されており有名な進学高です。しかし、オウムへ命がけで出家して

大罪を犯し、その本意をまっとうできずこの上なく悲しい限りです。

小学生から始めたサッカーに夢中な運動好きな少年でしたが、低学年のころから読書に興味があり、古書店で色々な本を読んでいたようです。

精神面では祖母の存在が大きな影響がありましたようで、息子の名前は祖母が熱心な信者でありました比叡山の麓にある九頭竜神社から嘉浩の命名を頂いて

おります。

子供たちの小さいころ病気がちでした私のために祖母がよく子供の世話をしてくれていましたので、祖母が死を前にして入院しておりました病院に誰よりも

しばしば嘉浩は祖母を見舞いに行っていました。そんなある日、「おばあちゃんに会いに行くと周りのお年寄りが羨ましそうに僕らをみるのが辛いよ」と周り

の方に気づかっていたようです。また、「おばあちゃんは変なことを言っていたよ。家に帰って掃除をしてきたとか、神様に会ってきたとか言っていたよ」

と聞いたらしく、祖母の死は息子にとって大きな悲しみだったようです。

 

嘉浩がオウムへ心を向けるようになった原因は、以上のような様々な事情がありますが、中でも決定的な要因は家庭内のトラブルかもしれないです。

長男の主人は、ご両親にとって頼りにされる存在だったことは当然なのですが、我が家の家庭経済に及ぶ程の事態が起こり、そのため主人とのいさかいが

絶え間なく続き、そうした状態の中で嘉浩は誕生しています。

子供たちが小学生に上るころは益々深刻な状態になり、取り分け繊細な心の嘉浩にとって安らぐことのできる居場所を無くしていたように思います。一方

愚かにも私は子供の心を汲まず、自分の苦しみを子供に愚痴って、その場を凌いでいたと思いますと、母親として遺憾ともし難い行為により嘉浩の人生を

狂わせたかもしれず、嘉浩の大罪は母親の私にあるように思います。

 

空手道場での大怪我が癒えた祝いに、琵琶湖の湖畔に一泊とまりで出かけることになりました。この小旅行が家族で出かける最後の旅行になりました。その

夜、嘉浩は床につかずホテルのベランダで朝を迎えていました。その時、オウム神仙の会のセミナーに参加しようかどうしようか、真剣に迷っていたように

思います。その当時の姿は②の写真です。

結局、オウムのセミナーに参加することを両親から承諾を得て、一週間セミナーに向かいました。もし、その時、強く反対しておれば嘉浩は参加はできな

かったのですが、セミナー位ならとあまり深刻に両親とも吟味しなかったことが、今さらながら悔やまれてなりません。

一週間後、予定通りに帰ってきましたので安堵したものの、嘉浩に何が起こったのか、嘉浩はこれまで見たことがない横柄な態度になって戻ってきました。

そして思いもよらず嘉浩の口から、「これから出家します」と父親の前で言い、それを聞いた主人は大声を張り上げて嘉浩を叱りつけていました。

間もなく二学期が始まり嘉浩は重い足取りで登校していきました。悲しげな嘉浩の姿に私も悲しんではおられず、思いきって担任の教師に相談するために

高校に出かけました。

担任の教師はすでに嘉浩の事情を存じておられ、重要な問題なので学校長に会ってくださいと言われ、その日に嘉浩も呼ばれ、親子で校長先生と面談しまし

た。

おおらかな応対をしていただき、校長先生は嘉浩を諭すように、「高校二年生の君は、今は学業を修めなければいけません。中退など考えず卒業してから自分

の生き方を考えても遅くないです。」と言い聞かせて下さいました。嘉浩は素直に頷き頭を下げて「わかりました」と礼儀正しく申し上げましたので私は大変

嬉しかったです。

しかし、その後の嘉浩の高校生活は異様でした。土曜日は下校のままオウムの大阪支部へ向かい、日曜日は朝から家におらず大阪へ行っていました。その

ような生活でしたが、オウムへはたして本当に行けるかどうか不安だったらしく、比叡山に一人で登ったり、高野山へ出かけたりしていました。

中退はあきらめた代わり、これからもオウムのセミナーに参加させてほしいと言われ、その年のお正月はオウムのセミナーで過ごしていました。考えてみれ

ばなんと無責任な両親と思われると思いますが、当時、主人も私もオウムに危機感は全然感じておらず、息子を束縛できず大目にみていました。

嘉浩からは時間のあるごとに、私に「すべての生き物を慈しむように」とか、「お母さんも前世は猫だったかもしれないよ」と言われ、蚊やハエなども殺す

ことに躊躇を覚えたほどでした。

 

 息子が高校三年になり本格的に進路先について学校では話し合いが始まっていたころ、麻原が大阪に来るという情報が嘉浩からもたらされ、私は一度会って

おくことは大切なことだと思いましたので、嘉浩からは母が一人で来るようにと聞いていましたが、さすがその勇気はなく主人と共に出かけました。

 麻原に会うやいなや主人は「嘉浩をオウムへ行かせることはできないです」と、強い口調で言いました。麻原は「たとえ親でも本人の意思は拒絶できない

です」と大口論になり、主人が「それならば嘉浩を勘当します」と言った瞬間、麻原は手のひらを返したように態度を和らげ側近の者に「嘉浩君をここに呼び

なさい」と申し付け、嘉浩に「大学に行きなさい」と言い、それを耳にした嘉浩は何が何だか分からずきょとんとしていました。

 

 その日から、嘉浩は俄かに大学探しをしなければならなくなり、苦労していましたが、なんとか東京の某大学にすべり込むことができました。大学の選択は

都内との麻原の指示があったらしいです。その結果、オウムの東京の道場に寝泊まりして、夜間はインストラクターをやっていたようです。

 

 嘉浩が高校の卒業式を終え東京に行くまでの期間に、1988229日にNHKTV放送、お早うジャーナル『神秘に魅かれる若者』の番組を家族で見て、

NHKよりオウムのことが紹介されていることを知り、息子のオウムへの出家の心配が解消された思いでした。

 嘉浩の出家後、私は在家の信徒としてオウムの京都支部で、オウムの教学を始めていた数年間を振り返りましても、オウムが恐ろしい悲惨な事件を起こす

教団になろうとは想像すらできませんでした。

 ところが平成6年ごろからオウムの教えの内容についていけなくなりました。ヴァジラヤーナとう訳のわからない教えを在家の信徒にも押し付けられ、

私は次第にオウムへ行かなくなりました。そして間もなく、地下鉄サリン事件が起こり、目の前が真っ黒になりました。

 出家により息子を全て委ねることになる教祖のことを、徹底して調べなければいけなかったのではないかと、主人もろ共大きな責任を感じています。

 息子がオウムへ出家の道を選んだのは、他の人の幸せを願っていたことは間違いございません。しかし、その道は大きな誤りでした。

 

 心の底から、被害者の皆様、御遺族の皆様にお詫びを申し上げます。

 誠に愚かな母親でした。心かお詫び致します。

 本当に申し訳ございませんでした。 

 

                            井上嘉浩の母

                             井上景子拝